善を求める心、愛の思いも置いていただけるのだそうです。私たちにも。 |
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2016年 07月 12日
善を求めよ。 悪を求めるな。 お前たちが生きることができるために。アモス書5:14 何事も愛をもって行いなさい。Ⅰコリント16:14 (ローズンゲン日々の聖句7/12;火) 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち人間一人一人と、思いを一つにし合い、心を一つにし合う関係になりたいのだそうです。 「父である神」と呼ばれる方、「御子である神」と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方が一つであるように(創世記1:26、ヨハネ10:30、17:21~23)。 イエスが語られた天国のたとえですが、王が王子の結婚の披露宴を設けたのだそうです。それで用意ができたので招待しておいたお客を呼びにしもべたちを遣わしたところ、彼らは来たがらなかったのだそうです。 それで、もう一度、別のしもべたちを遣わしたのですが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、、ある者は商売に出て行き、ほかの者たちは王のしもべたちを捕まえて恥をかかせ、そして殺してしまったのだそうです。 勤労は良いことであり、善なのでしょうね。 けれども、王との関係においては、その、善であるはず勤労が、王子の婚宴を気にもかけないですっぽかすことになると、善とばかりは言っておられないことになるのかもしれません。 そのとき、王はしもべたちに言ったのだそうです。 「招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。 だから、大通りに行って、出会った者をみな、宴会に招きなさい。」 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのだそうです。 ところで、王が客を見ようと入ってくると、そこに婚礼の礼服を来ていない者が一人いたのだそうです。それで、王が「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と尋ねると、彼は黙っていたので、王はしもべたちに、「あれを外の暗闇に放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ」と言ったというのですね(マタイ22:1~14)。 この人たちは、通りからいきなり連れて来られたわけですから、当然、礼服など用意していなかった。 今、みんなが着ている礼服は王が用意したものなのでしょうね。 けれども、この人は、王が出してくれた礼服よりも、今、自分が着ている、自分の力で得た服のほうがいいと思っていた。 だから、王の出してくれた礼服を着ようとはしないで、かえって、王の言葉に、ムッとして顔を伏せたのでしょうね。。 自分を向上させ、少しでも良い人間になろうとすること、それ自体は善なのでしょうね。 けれども、それが、自分の努力を誇ることになって、王が用意してくれた礼服を拒否することになると、外の暗闇に放り出されて、歯ぎしりして悔しがることにもなるということでしょうか。 人間的に見て善と思われること、それに精進し、努力することは善なのでしょう。 けれども、それが造り主である天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と対抗し、自分をこの方よりも高い位置につけようとするものであったとしたら、この方との関係はどういうことになるでしょう。 少なくとも、天の神、主の創造の目的からは、的外れになってしまっている、ずれてしまっているということのようです。 出エジプトの時も、天の神、主は、モーセに、「わたしは、あなたがたのうちにあっては上らない。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから」と言われ、それでモーセは、神と出会う「会見の天幕」を宿営の外の、宿営から離れたところに張ったようです(出エジプト記33:1~23)。 私たちは、うなじのこわい者、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となり(創世記3:5、22)、自分の理性を神とし、自分の理性による善悪の判断を良しとして、その思いのとおりに生きる者なのですね。 天の神、主は、そのような私たちをなお、絶ち滅ぼすことにならないようにと、御子である方を私たちの身代わりにして、私たちのそむき、的外れの責任を全部、御子である方に背負わせて十字架刑で処刑し、私たちへの処罰は終わったもの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている、「生まれたときからの霊」という私たち自身は処刑されたもの、死んだものと手続してくださったのだそうです。 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、私たちひとりひとりに対して思ってくださっている御思いを、一人一人の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ思いを思う者にしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~27、ヨハネ17:21~23)。 それで、自己本位の愛しかない私たちの心にも、悪を憎み、善を愛し、正しい裁き、公義と正義を求める思い(アモス5:15、24)が来、神である主の愛の御思いが来るようにもなるのだそうです。 ちょうど、道端から婚礼の祝宴に連れて来られた人が、今まで着ていた自分の服を脱いで、王が用意してくれた礼服を着て宴会に出るように。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-07-12 07:58
| 聖書
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2016年 07月 11日
アモスは言った。 「主なる神よ、どうぞ赦してください。 ヤコブはどうして立つことができるでしょう。 彼は小さいのです。」 主はこれを聞いて思い直され、 「このことは起こらない」と言われた。アモス書7:2~3 常に“霊”によって祈り、 すべての聖なる者たちのために、 絶えず目を覚まし根気よく祈り続けなさい。エフェソ書6:18 (ローズンゲン日々の聖句7/11;月) 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方がアモスを預言者として立てて、おっしゃったのだそうです。 「イスラエルのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。 彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。 彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。 彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金を取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる」(アモス2:6~8)と。 「わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき(食べる物をなくして)、あなたがたのすべての場所でパンに欠乏させた。 それでも、あなたがたは、わたしのもとに帰って来なかった。 ――主のみ告げ―― わたしはまた、刈り入れまでに三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。 2、3の町は水を飲むために、一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。 それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。 ――主のみ告げ―― わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。 あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。 それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。」(4:6~9) 「主を求めて生きよ。 善を求めよ。悪を求めるな。 そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。 悪を憎み、善を愛し、門で正しい裁きをせよ。 万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」(5:6、14~15)と。 そして、天の神、主が、アモスに、王が刈り取った後の二番草が生え始めたころ、いなごを造っておられ、そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしていることを示されたとき、アモスは、主に願って言ったのだそうです。 「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」 すると、主はこのことについて思い直し、「そのことは起こらない」と主は仰せられたのだそうです。 出エジプトのときも、ホレブの山で、イスラエルの民は、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と言いながら(出エジプト24:7)、モーセが山から下りて来るのが遅いと、「さあ、私たちに先立って行く神を造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから」とアロンに迫り、金の子牛の像を造らせて、これに全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供え、そして、民はすわっては飲み食いし、立っては、戯れたのだそうです。 それで、神である主は、モーセに、この民を滅ぼすと言われたのですが、モーセが、滅ぼさないよう執り成すと、これを受け入れ、処罰を止められたのだそうです(出エジプト32:1~35)。 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方は、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造った(創世記Ⅰ:26)私たち人間が、それよりももっと素晴らしい者になろうとして「神の一人のようになり、善悪を知る者になって(創世記3:5、22)、ご自身から離反し、そむき、対抗する者になってしまったとき、これを処罰しないで、身代わりの者を立てて、身代わりの者を処罰し、私たち人間を造られた元の場に回復させようと思われたのだそうです。 それで、ご計画の時が満ちて、御子である方が女の子孫として(創世記3:15)、人間イエスとして、人の世に来られ、すべての人間のすべてのそむきの責任を背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです(ヨハネ19:1~30)。 天の神、主は、これを受け取る者を、その「生まれたときからの霊」を処刑済み、処罰済みの手続きをしてくださって、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方をお遣わしくださり、この方によって、ご自身の一人一人に思っておられる御思いを、一人一人の心に書き付け、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、心を一つにして生きられるようにしていてくださるのだそうです。 ちょうど、食べた食物がその食べた人と一つになり、その人はその食べた食物と一つになっているように(ヨハネ6:47~56)。 それで、この方を受け入れた者は、この方によって「父である神」と同じ思いを思う者にしていただけて、「父である神」が願っておられることを願い、「父である方」が思っておらることを、希望をもって、アモスやモーセのように執り成し続ける者にもしていただけるのだそうです。 (参議院議員選挙が終わり、都知事選が控えていますけれど、「上に立つ者のためにもとりなし祈るように」(Ⅰテモテ2:1)とも勧めておられるのですね。) 今日も。
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by sch777kan
| 2016-07-11 10:02
| 聖書
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2016年 07月 10日
あなたがたはもはや、 外国人でも寄留者でもなく、 聖なる民に属する者、 神の家族である。エフェソ書2:19(7/10の週の聖句) あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、 あなたの神の御手の中で王冠となる。イザヤ書62:3 私は、聖なる都、新しいエルサレムが、 夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、 神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。黙示録21:2 (ローズンゲン日々の聖句7/10;日) 今までは、離反、そむきの罰を受けて「見捨てられている」、「荒れ果てている」と言われていたとしても、これからは、「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、「夫のある国」と呼ばれるようにしてくださるのだそうです。 天の神、主、「私はあるという者である」と名のられる方の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ(イザヤ62:4~5)、のだそうですから。 私たちは、自分の罪過と罪との中で死んでいた者、 それらの罪の中でこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、じぶんの肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受ける者、 この世にあって望みもなく、神もない者でした。 しかし、あわれみ豊かな神は、そのような私たちをなお、愛していてくださり、一方的な恵みによって、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ご自分の子、家族として、ともに天のところに座らせてくださっているのだそうです(エフェソ2章)。 そして、やがて実現する、聖なる都、新しいエルサレムを相続する者にもしてくださるのだそうです。 その希望をもって進むのですね。 天の神、主、「私はあるという者」と名のられる方が私たちを喜んでいてくださるように、私たちもこの方を喜ぶ者にしていただき、家族としての交わりを深めながら。 この新しい週も。
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by sch777kan
| 2016-07-10 09:59
| 聖書
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2016年 07月 09日
主なる神、あなたは 大いなる力を振るい腕を伸ばして 天と地を造られた。 御力の及ばぬ事は何一つない。エレミヤ書32:17 私たちは自分に頼らず、 死者を復活させて下さる神を頼りにするようになりました。 神は私たちを救って下さり、 これからも救って下さる。 私たちはこの神に希望をかけています。Ⅱコリント1:9~10 (ローズンゲン日々の聖句7/9;土) 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方は、あろうとするとおりに在ることができる方、言われたとおりを実行される方、言ったけれども実行できないというような方ではないのだそうです。 この人間の歴史を見守り、御思いのとおりに、ご計画のとおりに歴史を導かれる方なのだそうです。 私たちの目には、人間が自分勝手に歴史を作り出しているように見えますけれど。 西暦紀元前586年頃のこと、 離反に離反を重ね、預言者をとおして立ち帰るようにとの天の神、主からの呼びかけにも応じず、自分の思ったとおりの道を行くユダの民。 そして、ついにエルサレムもバビロン軍によって塁に塁を重ねて包囲され、まさに滅びようとしているそのとき、天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方は、預言者エレミヤに言われたのだそうです。「あなたのおじのハナムエルが、あなたのところに来て、『私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから』と言うから、みなの見ている前で、その畑を買い取り、その購入証書を土の器の中に入れ、保存せよ。 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再び、この国で、家や畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ」と(エレミヤ32:6~18)。 「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、このところに帰らせ、安らかに住ませる。わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。 わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす」(エレミヤ32:37~42)と。 そして、70年後に、約束のとおりに、イスラエルj地に帰還させてくださったのだそうです。 私たち、「生まれたときからの霊」は、「神の一人のようになり、善悪を知る者」(創世記3:22)となっていて、私たち人間を造られた天の神、主に離反、対抗し、自分の思ったとおりを生きるばかりの者なのですね。 天の神、主の怒りを身に積み、天の神、主からの良きものの一切から切り離され、本当に自分の力だけで生きなければならない、神なく、望みのない、滅びに向かって進むばかりの者なのだそうです。 天の神、主は、私たちが、その自分自身である「生まれたときからの霊」に頼らず、イエスが私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑を私自身である「生まれたときからの霊」の処刑と受け取って、「生まれたときからの霊」から来る思いを死んだ者から来る思いと認め、死者を復活させてくだる神、死者の中から最初に復活された方、イエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方から来る、「父である神」の私たち一人一人に思っておられる思いを私の思いとして生きる者になるようにと願っていてくださるのだそうです。 「わたしはあるという者」、「わたしはあろうと思うとおりに在ることができる者だ」とおっしゃられ、この人間の歴史もご計画のとおりに導かれる方が。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-07-09 10:00
| 聖書
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2016年 07月 08日
神々の神、主は、 御言葉を発し、 日の出るところから日の入るところまで、 地を呼び集められる。詩編50:1 神は、かつて預言者たちによって、 多くのかたちで、また多くのしかたで 先祖たちに語られましたが、 この終わりの時代には、 御子によって私たちに語られました。ヘブル書1:1〜2 (ローズンゲン日々の聖句7/8;金) 日本でも、「天知る。地知る。我知る」と言われていますが、天の神、主は、ご自分の民を裁くため、日の出るところから日の入るところまで、天と地を呼び集めて証言させると言っておられるのだそうです。 私たちは、一人一人、天の神、主の前で、これらの証言に対して弁明しなければならない時が来ると天の神、主は言われるのだそうです。 けれども、神である主は、私たち人間が滅びてしまうことを惜しまれ、身代わりのものを処刑して、私たちの背きの罪を処罰済みにしようとしていて下さるのだそうです。 天の神、主は、贖いのふたの上に、年に一度、大祭司が、民の罪を背負わせてほふった犠牲の動物の血を振りかけ、民の罪の贖いをするようイスラエルの民に命じ、その贖いのふたの上の二つのケルビムの間から、モーセに語るとおっしゃられました(出エジプト25:22)。 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方は、創造の初めから、自由意思で、愛と尊敬によって自発的に、ご自身と一つ思い、一つ心になるようにとの、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)との願いで造った人間が、その自由意思によって、その造られた場に留まることを止め、「神のひとりのようになり、善悪を知る者となる」(創世記3:5~6、22)ことを予測しておられたのだそうです。 それで、前もって、そのようになったとき、その人間を処罰しないで、その離反から救い出す方法を考えておられたのだそうです。 天の神、主、「わたしはあるという者」と名のられる方は、人間がそのように離反したときには、まず、御子である方が、天の栄光の座を捨てて人間として、女の子孫として(創世記3:15)人の世に下り、イエス(主は救い)と名のられ、すべての人間の離反の罪をご自身に背負って死刑を受けること、 そして、これを自分の離反の罪の処罰であると受け入れ、イエスによって自分の処刑が終わったものと受け取った者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方が降って行って、受け入れる者の心に、ご自身の「父である神」に対する愛と尊敬の思いを書き付け、「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者がこの部分において、愛と尊敬をもって「父である神」と呼ばれる方と同じ思いを思い、一つ心となるようにと計画されたのだそうです。 ちょうど、「御子である神」と呼ばれる方、「聖である霊」と呼ばれる方が、愛と尊敬をもって「父である神」と一つ思い、一つ心になっておられるように。 それで、神である主は、その御子イエスがすべての人間の離反の罪を背負って処刑を受ける、その出来事の予表、あらかじめ指し示すひな形として、選ばれた民、イスラエルにおいて、年に一度、大祭司が、民の罪を背負わせた牛、やぎをほふり、その血を贖いのふたの上に振りかけて民の罪を贖う(あがなう、代価を払って買い戻す)儀式を命じられたのだそうです(レビ記16:2~28)。 かつて、会見の天幕の贖(あがな)いのふたの上、あかしの箱の上の二つのケルビムの間からモーセに語り、イスラエルの民に告げさせられた方は(出エジプト25:21~22)、 神の御子である方が、人間イエス、女の子孫として人の世に来られ、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として、すべての人間のそむきの罪を背負って、十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に、新しいからだ、復活のからだでよみがえり、40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを弟子たちに示された後、天の「父である神」の右の座に帰られた今は、御子イエスを通して語っていてくださるのだそうです。 そして、そのイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者にそれぞれに対する御父の御思いを置いてくださるので、この方によって、その、心に来た思いについていく者は、イエスのからだの肢体として、イエスがしようと思われることを実現していくことになるのだそうです(Ⅰコリント12:12~18)。 各自が、それぞれの分に応じて。 天の神、主は、御子によってそのように語っておられるのですね。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-07-08 10:00
| 聖書
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2016年 07月 07日
若者にすぎないと言ってはならない。 わたしがあなたを、だれのところに遣わそうとも、 行ってわたしが命じることをすべて語れ。エレミヤ書1:7 主はパウロに言われた。 「恐れるな。語り続けよ。 黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。使徒18:9~10 (ローズンゲン日々の聖句7/7;木) 紀元前627年のこと、天の神、主、「『わたしはある』と名のられる方が、エレミヤをご自身の預言者として召し出されたとき、「わたしはあなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」とおっしゃられたのだそうです。 「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」と答えるエレミヤに、神である主は、冒頭の言葉で答えられたのだそうです。「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ」と(エレミヤ1:1~8)。 使徒パウロは、アテネを去って、コリントに来て、まず、神の選びの民であるユダヤ人にイエスのことを伝えようと、安息日ごとに、ユダヤ人の会堂に行き、イエスが、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために十字架に架かって死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れ、その後、500人以上の兄弟たちに同時に現れたこと、その後、ヤコブ(イエスの弟)に現れ、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私(パウロ)自身にも現れて下さった(Ⅰコリント15:3~8)ことを伝え、イエスがキリスト(救い主)であることを伝えて、天の神、主、「わたしはある」と名のられる方からの救いを受け取るように勧めたのだそうです。 けれども、彼らは反抗して暴言を吐いたので、パウロたちはユダヤ人から離れ、異邦人にイエスを伝えることになったのだそうです(使徒18:1~11)。 そのとき、神である主は、上のような言葉をかけられ、「この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われたのだそうです。 エジプトを脱出したイスラエルの民は、神の山ホレブ(シナイ山)に到着し、ここで、モーセを通して、天の神、主の御心(律法)を示されたとき、「主、「私はある」と名のられる方の仰せられたことは、みな行います」、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答えたのだそうです(出エジプト24:1~18)。 けれども、その後の800年ほどのイスラエルの歩みにおいては、「聞き従う」どころか、いよいよ、「神の一人のようになり、善悪を知る者」(創世記3:22)である実態が明らかになるばかりで、天の神、主を無視し、自分の理性による善悪の判断のとおりに生きていく、そむきの実態が明らかになるばかりだったのだそうです。 「自分はできている」、「自分でちゃんとやっていける」と思っている人は、「私はあわれみなど必要ない」と、天の神、主からのあわれみによる恵みの賜物(プレゼント)、イエスによる救いなど必要ないとして、これを無視するのですね。 けれども、小さい子ども、自分では生きて行けなくて、親の世話を受けて生きていくしかない小さい子どものように(マタイ18:1~6)、自分には、正しさはない、心に起こる思いは自分を言い立てる思いばかり、天の神、主にそむく思いばかりであることを知り、それを認めた者は、この天の神、主からの恵みのプレゼント、イエスの十字架の死と復活による罪の赦しをいただく者になるのだそうです。 そして、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして、天の神、主の御思いを心に置いていただき、天の神、主と同じ思いを思い、一つ心になって生きていって欲しいとの、天の神、主からの懇願を受け入れ、この方をお迎えし、一つ一つのことを天の神、主と相談しながら、御思いをお聞きしながら、生きるようになるのだそうです。 新しい生き方を。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-07-07 07:51
| 聖書
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2016年 07月 06日
イスラエルの王なる主はお前の中におられる。 目を覚ましていなさい。 信仰に基づいてしっかり立ちなさい。
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by sch777kan
| 2016-07-06 06:27
| 聖書
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2016年 07月 05日
御手が私を造り、固く立たせてくださいました。 私はあなたがたが キリスト・イエスによって神の恵みを受けた事を、 いつも私の神に感謝しています。 あなた方はキリストに結ばれ、 あらゆる言葉、知識において、 その結果、それ以降のイスラエル800年ほどの歴史においては、人は、神である主に対抗し、いよいよ「神の一人のようになり、善悪を知る者」、自己の思いを実現する道を歩む者であることが明白になるばかりだったのだそうです。
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by sch777kan
| 2016-07-05 11:52
| 聖書
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2016年 07月 04日
わたしはあなたの前に すべてのわたしの善い賜物を通らせ、 あなたの前に主という名を宣言する。 わたしは 恵もうとする者を恵み、 憐れもうとする者を憐れむ。出エジプト33:19(7月の聖句) 命ある限り、 私は主に向かって歌い、 長らえる限り、 私の神にほめ歌をうたおう。詩編104:33 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、 主に向かって心からほめ歌いなさい。エフェソ5:19 (ローズンゲン日々の聖句7/4;月) 天の神、主は、「わたしはある」という名の者だと名のられる方。 その方は、あらゆる良い物を賜物、プレゼントとして、恵もうとする者に恵まれ、憐れもうとする者に憐れまれる方なのだそうです。 その方は、「われわれのかたちとして、われわれに似せた者を」と望まれて私たち人間を造り(創世記1:26)、 その人間の住まいとしてこの大宇宙、地球とその自然環境を創造して下さった方なのだそうですね(イザヤ45:18)。 それで、この詩篇の作者は、「命のある限り、主に向かって歌い、長らえる限り、この方にほめ歌をうたおう」と謳うのだそうです。 イエスの十字架刑で処刑を通して私たちに来てくださる方、「聖である霊」と呼ばれる方は、「父である神」と呼ばれる方の私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に、置いてくださり、同じ思いを思い、一つ心にしてくださる方なのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~27)。 この方は、賛美の中に住まわれる方(詩篇22:3)。 それで、「父である神」は、私たちも、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合いながら、主に向かってほめ歌を歌いながら、この方、「聖である霊」とか「御霊」と呼ばれる方に満たされ(浸され、漬け込まれ、覆われ)て(エペソ5:18~19)、いよいよご自分とと一つ思いに、一つ心になりなさいと、使徒パウロを通して勧めておられるのですね。 出エジプトの時、モーセが、この方が仰られるとおりに手を海の上に差し延ばすと、この方は一晩中強い東風を吹かせて海を退かせ、イスラエルの民が海の真ん中のかわいた地を行かせて向こう岸に渡らせ、今度は、向こう岸からモーセが手を海の上に差し延ばすよう示されて、モーセがそのとおりにいたとき、水はもとに戻って、後を追って海に入ったエジプト軍は海の水に飲まれてしまったのだそうです(出エジプト14:15~31)。 エジプトを脱出したイスラエルの民の数は、戦闘に参加できる男の数が60万3550人(出エジプト38:26、民数記2:32)、 そのほかに、数えることをしなかったレビ人、年寄りや子どもたち、女性たち、そして、加わって来た、イスラエル人ではない多くの人たちがいたそうですから、200万人ともそれ以上とも言われています。 最初、その人たちの訴訟をモーセ一人でやっていたため、民も一日中、順番待ちで立って待っていたようですが、天の神、主は、しゅうとのミデヤン人の祭司イテロに知恵を与え、モーセに忠告させ、モーセはこの忠告に従い、1000人の長、100人の長、50人の長、10人の長を立てて、訴訟を分担し、モーセの重荷を軽くし、モーセも民も長持ちするように導かれたのだそうです(出エジプト18:13~26)。 「父である神」は、私たちが、「聖である霊」と呼ばれる方によって受け入れる者の心に来る、「父である神」の御思いについて来て、ご自身が私たち一人一人を通してしようと思われることを共にしていき、この方の知恵と力をもって進んでいくようにと願っておられるのだそうです。 今日も。 ▲
by sch777kan
| 2016-07-04 17:46
| 聖書
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2016年 07月 03日
恐れるな、 わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名を呼ぶ。イザヤ書43:1(7/3の週の聖句) 主の日は大いなる日で、はなはだ恐ろしい。 誰がその日に耐えられよう。 主は言われる。 「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。ヨエル書2:11~12 世は更け、日は近づいた。 だから、闇の行いを脱ぎ捨てて 光の武具を身に着けましょう。ロマ書13:12 (ローズンゲン日々の聖句7/3;日) もし、天の神、主が、因果応報で私たちに接せられたら、私たちの心、行動を裁かれたら、私たちは誰一人、この方の前に立つことができ、、義とされるものはいないのだそうです。 まさしく、「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。 神を求める人はいない。 すべての人は迷い出て、みな、ともに無益な者となった。 善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~12)のが、私たちの実態なのだそうです。 それで、神の正しいさばきが現れる日、神がひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになる日は、私たちのかたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの現れる日となり(ロマ2:5~6)、はなはだ恐ろしい、誰も耐えられない日となるのだそうです。 そのような私たちをも、天の神、主は、なお、惜しんでくださって、あわれみと慈しみをもって接してくださり、私たちを取り戻し、初めの目的のように回復しようと計画していてくださるのだそうです。 天の神、主は、独り子であられる方、永遠の初めから共におられ、この天と地、宇宙と地球の自然環境、そして、生き物と人間を、ご一緒に創造された御子である方を、私たち人間のそむきの罪の贖い代(あがないしろ、買い戻しの代金)と定め、ご計画の時に、予告されていた村、ベツレヘムで、女の子孫(創世記3:15)として、預言の言葉のとおりに、ダビデの系統の一人の貧しい処女マリヤを通して、人間イエスとして生まれさせ、預言の言葉のとおりにナザレ村で育たせ、そして、およそ33歳の頃、この方を、私たちすべての人間の身代わりとして立てて、私たちのすべてのそむきの罪を背負わせて十字架刑で処刑して、受け入れる者のそむきの罪を処罰済みとされる道を開かれたのだそうです。 そのうえで、この贖いを受け取った者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方の働きによって、ご自身の、一人一人に持っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、これを受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になるようにされたのだそうです。 そして、おっしゃるのですね。「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの」と。 そして、ご自身の子として、私たちひとりひとりを、それぞれの名をもって呼んで下さるのだそうです。 だから、天の神、主は、私たちが、、「神の一人のようになり、善悪を知る者」として、自分が自分の主人だとして、思いのままにふるまって来た今までの生き方にサヨナラをし、このことを受け取り、自分のものとして闇の行いを脱ぎ捨て、光の中、天の神、主の御思いの中を生きる者になって欲しいとおっしゃるのだそうです。 「聖である霊」と呼ばれる方によって、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活から出て、昼間らしい、正しい生き方を一緒にする者になってほしいのだそうです(ロマ13:13)。 この新しい週も。
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by sch777kan
| 2016-07-03 10:51
| 聖書
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