唯一の神、唯一の主 |
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2016年 04月 25日
思い起こせ、初めからのことを。 わたしは神、ほかにはいない。 わたしは神であり、 わたしのような者はいない。イザヤ書46:9 私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、 万物はこの方から出、私たちはこの神に帰って行くのです。 唯一の主、イエス・キリストによって、 万物も私たちも存在しているのです。Ⅰコリント8:6 (ローズンゲン日々の聖句4/25;月) この世に、神と呼ばれるものはたくさんあります。 しかし、天の神、主は言われます。 「わたしをだれになぞらえて比べ、 わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。 袋から金を惜しげなく出し、 銀をてんびんで量る者たちは、 銀細工人を雇って、それで神を造り、 これにひざまずいて、すぐ拝む。 彼らはこれを肩にかついで運び、 下に置いて立たせる。 これはその場からもう動けない。 これに叫んでも答えず、 悩みから救ってもくれない。 遠い大昔の事を思い出せ。 わたしが神である。ほかにはいない。 わたしのような神はいない。 わたしは、終わりの事を初めから告げ、 まだなされていない事を昔から告げ、 『わたしのはかりごとは成就し、 わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う。 わたしは、東から猛禽(バビロンを滅ぼしたメディヤ・ペルシャのクロス王)を、 遠い地(ペルシャ)から わたしのはかりごとを行う者を呼ぶ。 わたしが語ると、すぐそれを行い、 わたしが計ると、すぐそれをする。」(イザヤ46:5~11新改訳)と。 また、言われます。 「わたしに聞け、 ヤコブの家と、イスラエルの家のすべて残りの者よ。 体内にいる時からになわれており、 生まれる前から運ばれた者よ。 あなたがたが年をとっても、 わたしは同じようにする。 あなたがしらがになっても、わたしは背負う。 わたしはそうしてきたのだ。 なお、わたしは運ぼう。 わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ46:3~4)と。 人間の手で運ばれる神ではなく、「わたしがあなたがたを運んで来た。これからも運ぼう」と言われる神がおられるのだそうです。 私たちは、万物は、この方の御思いから出て、創造され、この方によって存在し、この方へ帰って行くもの、なのだそうです。 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:22)、「生まれたときからの霊」から来る思いによって生きるのではなく、その思いは、「死んだ者から来た思いである」と認めて(ロマ6:11)、私たちに代わって十字架刑での処刑を受け、三日目に墓より新しいからだに復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が(使徒2:32~39)、受け入れる者に来てくださり、受け入れる者の心に置いてくださる「父である神」の、一人一人に思っていてくださる御思いによって、新しく生きる者にしていただけるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。 この方を「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)としていきたいですね。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-04-25 07:32
| キリスト教
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2016年 04月 24日
新しい歌を主に向かって歌え。 主は驚くべき御業を成し遂げられた。詩編98:1 (4/24の週の御言葉) 彼らは泣きながら帰って来る。 わたしは彼らを慰めながら導き、流れに沿って行かせる。 彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。 わたしはイスラエルの父となる。エレミヤ31:9 今はあなたがたも、悲しんでいる。 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、 あなたがたは心から喜ぶことになる。 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:22) (ローズンゲン日々の聖句;4/24;日) イエスは 、「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)と言われたのだそうですが、天の神、主の呼びかけに応えようともせず、自分のそむきの罪のゆえに、ついに打たれて国が亡び、捕囚の身となり、70年の時を経てエルサレムに帰って来た人たち、また、今、どう生きて行ったらよいのか分からなくて、あるいは自分の罪の存在に、あるいは大きな苦しみに遭って悲しんでいる人、その人を慰めると主はおっしゃるのですね。 イエスが会ってくださり、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださるので、お迎えする者は、心から喜ぶことになるのだそうです。 新しい歌を主に向かって歌い、私たちのために為し遂げてくださった救いの御業を、その御愛を喜び、感謝し、ほめたたえながら、今、天の神、主が私たち一人一人をとおしてしようと思っておられることをこの地に運びつつ、やがて実現するる新しい御国に向かって導いていただけるのだそうです。 この新しい週も。
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by sch777kan
| 2016-04-24 10:00
| キリスト教
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2016年 04月 23日
憎しみはいさかいを引き起こす。 愛はすべての罪を覆う。箴言10:12 愛は忍耐深い。愛は情け深い。ねたまない。 愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、 いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。Ⅰコリント13:4~6 (ローズンゲン日々の聖句4/23;土) このような愛で愛してくださっているのだそうです。私たちを、天の神、主は。 「御子である神」と呼ばれる方が、天使の万軍に号令する、その天の栄光の地位を後にして、人として、人の世に来て下さり、私たちの罪を覆うため、私たち人間の身代わりになって、私たち人間のそむきの罪のすべてを御自身の身に負い取ってくださって、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。 イエスの出生より700年ほど前、天の神、主は、イザヤを預言者として立て、イエスの十字架刑に向かわれる様子を次のように預言されているのですね。 「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、 輝きもなく、 私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、 悲しみの人で病を知っていた。 人が顔をそむけるほどさげすまれ、 私たちも彼を尊ばなかった。 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 彼は痛めつけられた。 彼は苦しんだが、口を開かない。 ほふり場に引かれて行く羊のように、 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、 彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、 生ける者の地から絶たれたことを。 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、 彼は富む者とともに葬られた。 彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。 もし彼が、自分のいのちを 罪過のためのいけにえとするなら、 彼は末長く、子孫を見ることができる、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 彼は、自分のいのちの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。 わたしの正しいしもべは、 その知識によって多くの人を義とし、 彼らの咎を彼がになう。 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、 彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。 彼が自分のいのちを死に明け渡し、 そむいた人たちとともに数えられたからである。 彼は多くの人の罪を負い、 そむいた人たちのためにとりなしをする。(イザヤ53:2~12新改訳)と。 この、イエスの愛による、そむきの罪をおおっていただく出来事、 ローマの総督ピラトの裁判の席でも、ピラト自身が不思議に思うほどにひと言の抗弁もせず、訴えられるまま、十字架刑を受け取って、処刑を受けてくださった、その出来事により、これを受け取る者は、イエスの死に合わせられた者、死刑の執行が終わった者として扱ってもらえるのだそうです。 そして、受け入れる者には、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方が来て下さって、「父である神」が一人一人に思っていてくださる御思いを、その一人一人の心に書き付けてくださるので、受け入れる者は、その部分において、「父である神」と同じ思いを思い、「父である神」と一つ心にしていただけるのだそうです(創世記1:26、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17:21~23)。 それで、受け入れる者の心にも「父である神」の愛の心が来て、受け入れる者は、忍耐強く、情け深く、妬まず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みをいだかず、不義を喜ばないで真実を喜ぶ新しい心にもしていただけるのだそうです。 だから、この方をお迎えし、この方の中に満たされ、バブテスマされ(沈められ、漬け込まれ)、覆われて、この方が心に置いてくださる御思いについて行くために、心に来る思いに気をつけていてほしいのだそうです。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-04-23 08:17
| キリスト教
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2016年 04月 22日
わたしは、自分の手で天を広げ、 その万象を指揮するもの。イザヤ書45:12 全能者である神、主よ、 あなたの業は偉大で、驚くべきもの。黙示録15:3 (ローズンゲン日々の聖句4/22;金) 「天を張り広げ、引き延べ、天の万象を呼び出し、指揮し、動かしているのはわたしだ」と主張される方がおられるのですね。万物の創造者、支配者である方が。 この方が、天の万象も、地球の自然環境も、人間のために、人間の住む場所として創造したとおっしゃっておられるのだそうです(イザヤ45:18) その、創造者、全能者の側に立つ御子である神と呼ばれる方が、人間イエスとして、人の世に来られ、私たちに代わって、私たち、すべての人間のすべての罪を背負って十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです(ヨハネ19:1~19)。 それで、これを受け取った者は、すべての罪の処罰が終っているものと手続きしていただけて(ロマ8:1)、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださり(ヨハネ14:16)、受け入れる者を、「父である神」と呼ばれる方と同じ思い、一つ思いを思う者にして下さり、神と一つになっている者と呼んで下さるのだそうです(ヨハネ17:21~23)。 それで、天では、ガラスの海のほとりに立っている、獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々(黙示録2~4)、この救いをいただいた数えきれないほどの人々(黙示録7:9~12)、そして千の幾千倍、万の幾万倍の天使たちが(黙示録5:11~14)、感謝と賛美の歌を歌っているのだそうです。 地にあっては、私たちが。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-04-22 08:08
| キリスト教
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2016年 04月 21日
わたしの民よ、心してわたしに聞け。 わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。 教えはわたしのもとから出る。 わたしは瞬く間に、 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。イザヤ書51:4 私たちの救い主である神は、 すべての人々が救われて真理を知るようになることを 望んでおられます。Ⅰテモテ2:3~4 (ローズンゲン日々の聖句4/21;木) 耳を傾け、心して聞いて欲しいとおっしゃるのですね。 天の神、主と呼ばれる方が。 この方は、真理、愛と憐れみ、正義と公平な方。 この方の御思いに聞いていくなら、「神の一人のようになり、善悪を知る者になろう」(創世記3:5~6、22)とし、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くようになっている私たち人間も(創世記6:5)、正しく生きることができるのでしょうか。 この方は、すべての人がこの方との正しい、あるべき関係に立ち返り、 この方の御思いを心に持ち(Ⅰコリント2:16)、この方の御思いによって生きるようにと望んでくださっているのだそうです。 それで、この方は、私たち人間が、その生き方に立ち返れるようにと、永遠の初めから共におられ、天地の創造、人間の創造を共にされた方、「御子である神」と呼ばれる方を、ご計画の時が満ちた、今から2000年ほど前、女の子孫、男の「神の一人のようになり、善悪を知る者となろう」とした性格を引き継がない者として、ダビデ王の家系の一人の貧しい処女マリヤの胎をとおして、人として人の世に生れさせ、33歳の頃、この方、ナザレ村出身のイエスを、ローマ兵の手で十字架刑で処刑させ、私たち、すべての人間のそむきの罪の罰をこのいえすによって処罰されたのだそうです。 そのうえで、復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたこのイエスを通して、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、この「聖である霊」と呼ばれる方の働きで、受け入れる者の心に、一人一人に持っていらっしゃる御思いを書き付け、御自分と同じ思いを持つ者としてくださり、御自分と一つ行動をとる者、神の御霊に導かれる神の子ども(ロマ8:14)としてくださるのだそうです。 受け入れるなら、私たちも、「聖である霊」と呼ばれる方の中にいる者となり(ロマ8:9)、この方の中に満たされ(沈められ、漬け込まれ)て、「父である神」の御心はなんであるかをよく悟り(エペソ5:17~18)、御思いに導かれて進む者に(ガラテヤ5:25)していただけるのだそうですから、受け取って、御思いに耳を傾け、聞き取る者になって、御自分と一つ歩みをして欲しいのだそうです。 今日も。
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by sch777kan
| 2016-04-21 10:14
| キリスト教
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